Unixの自由

TechLION vol.10に行ってきた。村井純さんのお話を聞いてきた。村井純さんといえば、Unixとインターネットを創った男だ。もう古い本だが、村井純さんは、Bachの『UNIXカーネルの設計』の翻訳者でもある。この本は、私が初めて読んだカーネルの本だ。この本でOSとは何かを学び、Unixとは何かを学んだ。今、私がLinuxの仕事をしているのも、この本のおかげだ。

今や、Unixだらけだ。Linuxであり、BSDである。Solarisであり、MacOS Xである。WndowsですらPOSIX APIを備えている。IBMメインフレームでもLinuxを使う顧客がいるという。スーパーコンピュータもそうだ。Androidもそうだ。どうしてこうなってしまったか?

村井純さんが学生の頃、最初に教授に指示された仕事が、DECのPDP-11用OSであるRSX-11の逆アセンブルであったという。もちろん手作業である。村井純さんは、この作業でOSを学んだという。

その後しばらくしてUnixが登場する。Unixの特徴には、ファイルによる抽象化がある。一見奇妙なfork/execモデルも特徴と言える。しかし、一番の特徴は、Cで書かれていること、そしてそのソースコードを読むことができるということだ。

村井純さんがおっしゃるには、Cで書かれたUnixは遅かったという。ハードウェアベンダーがカリカリにチューンしたOSにはとてもかなわなかったという。しかし、それでもUnixを選んだ。なぜなら、Unixには自由があったからだという。

あるソフトウェアが自由とはどういうことか? もっと単純で物質的な道具について、その自由を表明したら少し奇妙な印象を受けるだろう。例えば、「ハサミは自由である」と言ってみたらどうか?

もちろん、ハサミは自由だ。アナタは、ハサミを使って自由に紙を切ってよい。封筒を開けるのに使ってよい。お菓子の袋を開けるのにも使ってよい。ハサミの使用目的は「切る」ことだ。ハサミが自由であるとは、アナタは何を切ってもよいということだ。もちろん、夜道で人を切りつけてはダメだ。犯罪行為は、道具に関わる自由の例外である。

ソフトウェアも道具だ。Unixにもハサミと同様の自由を認めてよいはずだ。つまり、Unixの使用目的について、アナタは自由である。問題は、Unixの使用目的とは何かということだ。UnixはOSなので、OS一般の使用目的と言い換えてもよい。

OSの教科書をめくると、OSには2つの機能があると書いてある。リソースの管理と、APIの提供だ。これらの機能は、アプリケーションプログラムを書きやすくするためにある。ナマのハードウェアを触るのはしんどい。

したがって、OSの使用目的とは、その上でアプリケーションプログラムを書いて動作させることと言っていいだろう。つまり、アナタは、そのOSで、自由にアプリケーションを書いたり動作させてよい。

どこかで何かを間違ったのだろうか? RSX-11上でアプリケーションプログラムを書いたり動作させることに関して、DECは自由を制限していたのだろうか? そんなはずはないと思う。村井純さんはどの自由のことを言ったのだろう?

帰りの電車の中で、思うところがあってRaymondの『The Art of Unix Programming』を読み始めた(こういうときSafari Books Onlineは最高!!)。この本の、あるセクションのタイトルが目に止まった。それこそ、Unixに固有に認められる自由だった。すなわち、Raymondが言うことには、「Unix Is Fun to Hack」である。

Unixには、アプリケーションプログラムを書いたり動作させたりするというOS一般に認められる自由の他に、ハックする自由がある。ハックの対象は、Unixカーネルの内部まで及ぶ。つまり、Unixは中身を調べて、場合によっては改造してもいいということだ。そのためには、高級言語で書かれていたほうがいい。

アプリケーションプログラマの中には、RSX-11を好む人もいただろう。Unixは遅いし、誰かのハックのおかげでクラッシュするかもしれない。しかし、多分ハッカーUnixを好む。誰だって、RSX-11を逆アセンブルしたくはないだろうし、逆アセンブルしたとしてもRSX-11のハックは地下でやるしかない。

道具に関する自由というコンセプトは、アメリカの銃規制の問題を思い起こさせる。アメリカでは合法的に銃を所持することができる。しかし、銃は犯罪にも使われるため、アメリカ人の中には銃を規制したほうがよいと考える人もいる。

銃の使用目的は、何かを撃つことだ。つまり、銃の自由とは、アナタはその銃で何かを撃ってもよいということだ。もちろん、人を撃ったらダメだ。ハサミで人を切りつけては行けないのと同じだ。

銃規制に反対する人は、単に銃を奪われることだけでなく、自由を奪われることを恐れているのではないかと思う。逆に賛成派は、多少の不自由を受け入れればよりより社会になるよ、と言っている。

ハックする自由。なんだか当たり前の結論に至った。Richard Stallmanなんかが一生懸命主張しているのも、つまるところはハックする自由なのだろう。Linuxをはじめ、オープンソースのソフトウェアが普及したのもハックする自由があったからだ。結局みんなUnixの仲間なのだ。

リアルタイム・コンピューティングとカント主義

ミラクル・リナックスに入社してちょうど3ヶ月が経った。試用期間が終わり、正式(?)に採用となった。散々遅刻したのにクビにならなかったので、ほっとしている。これからはフレックスタイムが使えるので、大いに寝坊できるとうものだ。

4月末に、「実績レビュー」なるものがあった。社長以下各セクションのトップを集め、プレゼンを行い、この3ヶ月の仕事を見てもらって、継続して雇うかどうかを判断してもらおうというわけだ。これが、1時間も時間がとってあった。長い。

困ってしまった。私のプレゼンのスタイルは、「瞬発力で勝負」というものであって、せいぜい15分がいいところ。そもそも、1時間もしゃべる話題がない。うっかり口を滑らせて、「Linuxでリアルタイム・コンピューティングをやりたい」と言ってしまったところ、思いの外盛り上がった。

コンピューティングの世界で、「リアルタイム・コンピューティング」ほど誤解されている概念は無い。単に「レスポンスタイムが短い」という意味でリアルタイム・コンピューティングと言う人もいるし、「計算機内部の時間の流れと外部の時間の流れが同期している」という意味で言う人もいる。

私が思うに、「処理のデッドラインが設定されている」というのが、リアルタイム・コンピューティングの定義だ。デッドラインとは、その間に処理が終わって欲しいという時間である。デッドラインを過ぎる(デッドラインミス)と、計算結果の意味が失われる。リアルタイム・コンピューティング技術とは、いかにしてデッドラインを守るかという技術だ。

デッドラインミスが起きたときに何が起きるかはシステムによる。例えば、画像の乱れなど、一時的なパフォーマンスの低下として無視できる場合もある。飛行機の墜落や100億円の人工衛星が失われるなど、「大惨事」が起きるかも知れない。現実には、ほとんどのリアルタイム・システムは前者のグループに属する。ほとんどの場合、デッドラインミスは、単に無視できるか、上位のプロトコルでリカバリーできる。

一般的に、コンピューティングの世界では、パフォーマンスとは「速さ」だ。一方、リアルタイム・コンピューティングの世界では、パフォーマンスとは、あくまでも「デッドラインの尊守」である。計算が速いこととデッドラインの尊守は矛盾する概念ではない。しかし、イコールではない。

一般的なコンピューティングの世界にいる人には、この点をなかなか理解してもらえない。「リアルタイムだろうが何だろうが、速ければ文句ないだろう?」というわけだ。確かに文句はないのだが、それだけでは何か大事なものを見落としているような気がするのだ。

そこで、ひとつうまい説明を思いついた。すなわち、一般的なコンピューティングは、ベンサムの「功利主義」の世界である。一方、リアルタイム・コンピューティングは、「カント主義」の世界である。

功利主義やカント主義というのは、政治哲学の概念である。どうしてこんな比喩を思いついたかというと最近サンデル教授の本を読んだからなのだが、この喩えは、一般的なコンピューティングとリアルタイム・コンピューティングの違いをよく現していると思う。

時代的にはベンサムのほうが古い。ベンサム功利主義は、最大多数の最大幸福とも呼ばれる。幸福最大原理である。ベンサムは、よりよい社会のためには、「効用」を最大化せよと説いた。効用とは、社会のすべての快楽を合計し、それから社会のすべての苦痛を引き算することで得られる。

ベンサムの視点でコンピューティングの世界を見てみよう。効用の定義は単純だ。効用とは「速さ」だ。すべての処理時間を合計し、それが最も短くなるようにすればよい。

コンピューティングにおける功利主義的技術の例として、キャッシュメモリがある。キャッシュメモリを使用すれば、全体の処理時間を短縮できる。しかし、個々のメモリアクセスに注目するならば、キャッシュミスが発生した場合、そのメモリアクセスの処理時間はわずかに延びる。すなわち、まずキャッシュを見にいき、そこに目的とするデータが無いならば、キャッシュを無効にし、さらにメインメモリを見にいく。この一連の処理の後、レジスタにデータがロードされる。しかし、全体としては、効用(速さ)は最大化(最小化)される。

さて、功利主義への批判は2つある。第1に、少数の意見が無視されることだ。第2に、そもそも論として、快楽や苦痛など人それぞれなのだから、それを「効用」なるある種のスカラー量に押しこむことができるのかということだ。

カントは、「人は皆尊敬されなければならない」とした。少数の意見を無視したり、人によってバラバラの価値観をひとつの尺度に押しこむことは、人々を尊敬しないことだとした。

カントの考えは難しい。尊敬とは何か? 尊敬を「デッドラインの尊守」と考えるならば、カント主義はリアルタイム・コンピューティングと似ているような気がする。少数の処理であれ、デッドラインは尊守されなければならない。プロセッサのパワーに対してタイトなデッドラインを設定する処理もあれば、余裕のあるデッドラインを設定する処理もある。いずれにせよ、デッドラインは尊守せねばならない。

再びキャッシュメモリについて考える。リアルタイム・コンピューティングにおいては、キャッシュミスによってキャッシュメモリの恩恵を受けられない処理があることは、それ自体では問題としない。問題は、キャッシュミスの予測が非常に難しいため、キャッシュミスを考慮した設計ができないことだ。予期せぬキャッシュミスは、予期せぬデッドラインミスを招くかも知れない。カントの目には、キャッシュメモリは非常にリスキーだ。

ベンサムもカントも理論家だ。しかし、多くの政治家は実務家である。現実の社会では、功利主義もカント主義も、どちらが優れているとは一概には言えない。実務家である政治家は、これらをうまく組み合わせ、最適のところでバランスするのである。

我々プログラマも実務家である。リアルタイム・コンピューティングをやっているからといって、例えばキャッシュメモリを排除してしまうのは惜しい。タイトなデッドラインに処理を押しこむのはそれ自体一苦労だし、上にも述べたように、たまのデッドラインミスであれば許容されることが多いという現実もある。

リアルタイム・コンピューティングの実務家としては、功利主義的技術とカント主義的技術をうまく組み合わせ、システムの仕様を睨みながら、最適のところでバランスするのである。


リアル本屋の楽しみ

亀有に引っ越してきて非常に不便なのが、近くに大きな本屋がないことだ。藤沢には、駅前にジュンク堂有隣堂があり、まさに本屋戦争の様相を呈していた。亀有だって住んでいる人の数はそれなりなのだから、もうちょっと大きな本屋があってもよさそうなものである。

一時期は、本はすべてAmazonで買っていた。リアル本屋で面白そうな本を見つけても、家へ帰ってAmazonで注文していた。Amazonにはリコメンド機能があるからだ。Amazonで買い物をすればするほどリコメンド機能が賢くなる。このリコメンド機能をかなり頼りにしていた。

しかし、最近、リコメンド機能などどうでもよくなってきた。要は、似たような本ばかり読んでもしょうがないのだ。読書も娯楽である。新しい知識と出会う楽しみがある。幅広い、ときには意外な本が読みたいのだ。

この点において、Amazonのリコメンド機能は退屈だ。いわゆる「紙おむつとビール」理論は、売る側にとっての「意外性」であって、買う側にとっての「意外性」ではない。買う側は、そもそも、最初から紙おむつとビールを買いに来ているのである。

リアル書店のいいところは、そこに人間の意思が働いていることだ。大きな本屋へ行くと、新刊書と売れ筋のコーナーの他に、様々な「フェア」が催されていることがある。

例えば、「経済学の古典を読もう」みたいなフェアが開催されていて、そこにケインズの「一般理論」が置かれていたりする。非常に有名な本であるが、普通の人は読まない。そもそも、そういう本を読もうと思いつかない。しかし、そういう本が置かれていて目に入れば、読んでみようかなという気になるかも知れない。

亀有に大きな本屋がないので困っていたのだが、よく考えたら神保町まで行けばいいことに気がついた。神保町は、三田線で大手町の一個隣りである。大手町までは定期で行ける。別に、希少な古本を探しているわけではないが、世界最大の古書の街なら、「意外性」に出会えること間違いない。

3月末にリニューアルオープンしたばかりの、東京堂書店へ行ってみた。フロア面積としては、近くの三省堂本店などにははるかに及ばない。しかし、リアル本屋の楽しみを凝縮したような店である。1階から3階まで見て回ったら疲れてしまった。嬉しいことに、カフェが併設されている。

Kindleの日本進出が近いと言われている。喜ばしいことである。しかし、そうなると、リアル本屋の存在はますます重要になる。はじめから欲しい本がわかっているのなら、人々はネットで買うだろう。リアル本屋は、「なんか面白い本はないか?」という人々に応えねばならない。そのとき、どういう本を出してくるか? 書店員の腕の見せどころだ。

技術者の倫理

ミラクル・リナックスに入社して1ヶ月経った。3月からまた新しい人(NetBSDハッカー!!)が入ったので、昨日は歓迎会だった。つまりは飲み会なのだけれども、ミラクルの人たちと話していてひとつ驚いたことがある。彼らは、会社の飲み会で技術の話をするのだ。往年の親指シフトから、最新の(?)GNU Hurdまでが話題に上がった。

技術者には個性というものがある。強みである。もちろん、弱みともなりうる。前職の三菱電機では、マネジメント上の最大の焦点とされたものに、技術者の個性の無効化がる。無効化という言葉が過激すぎるなら、均質化と言い換えてもよい。逆に、ちょっと過激な言葉を使うならば、前職のマネジャーたちは、技術者を交換可能な標準化された部品とみなした。

天才的技術者がいたとする。すべての製品を彼の天才に頼っていたとする。ある朝、彼が交通事故に遭うようなことがあれば、直ちに事業は破綻する(スーパーコンピュータの父であるシーモア・クレイは交通事故で亡くなった)。したがって、天才的技術者への依存はリスクである。

前職のマネジャーたちは、シーモアの天才的コンピュータ設計能力のごときを利用しないという戦略によって、このリスクを回避しようとした。仕事を設計する際、シーモアの能力を最大限に引き出すようにはしなかった。シーモア以外の技術者でもできるように仕事を設計し、その仕事をシーモアに与えた。そうすれば、シーモアが交通事故に遭っても、別の技術者が引き継ぐことができる。

この戦略は、第1に、組織にとって不幸である。シーモアの能力が本当に価値ある製品を生み出すことができるものだとするならば、当然ながら、この戦略は価値ある製品を生み出さない。技術者の個性を無効化するということは、その組織の生み出す価値も無効化するということだ。

本質的に価値のない製品を売るためには、その製品があたかも価値があるかのごとく見せかけなければならない。例えば、無理な低価格化を行う。これは、多くの場合、技術者の賃金を下げる(サービス残業なども含む)ことによって行われる。一見、低価格は消費者にとってよいことのように思える。しかし、実際には、消費者はよりよい価値を得るチャンスを失っている。

第2に、シーモア自身にとっても不幸である。確かに、シーモアに与えられた仕事は、シーモアほどの天才をもってすれば容易にこなすことができるだろう。しかし、恐らく、シーモアは楽して稼ぐために技術者をやっているのではない。技術者なら誰もが知っていることだが、技術者は仕事そのものを報酬とみなす。自身が良い仕事をしたと思ったとき、最大の満足を得る。

仕事から満足を得られないならば、技術者は単に去るかもしれない(シーモア・クレイはいくつかの組織を転々としている)。もっと悪いシナリオは、技術者が、与えられた仕事に自らの能力を最適化してしまうことだ。余剰の能力を捨ててしまう。他へ移った技術者は、新しい組織で新しい価値を生み出すチャンスがある。能力を放棄した技術者は、もはやいかなる価値を生み出すこともできない。

今、日本企業に元気がないと言われる。なぜ、今の日本にはGoogleAppleが生まれないのかと言われる。なぜ、日本にはこれだけ多くの企業がありながら、GoogleAppleのような製品を生み出せないのかと言われる。

当然である。技術者の個性の無効化という戦略では、価値ある製品は生み出せない。技術者の個性の無効化によって、組織の産み出す価値は無効化され、技術者は能力を放棄してしまう。

本田宗一郎松下幸之助の時代には、日本企業も価値を生み出していたはずだ。価値を生み出したからこそ、日本製が選ばれ、日本経済は発達した。しかし、彼ら戦後日本経済のヒーローが去った後、残された日本のマネジャーたちは、もう彼らには頼るまいと思った。そして、技術者の個性を無効化することを思いついた。その結果、日本製は急速に魅力を失い、退屈な技術者が残った。

私が、前職の同僚たちとの飲み会で最も不満だったことは、彼らが技術について話そうとしないことだった。少なくとも、親指シフトが話題に上ったことはなかった。彼らは、そもそも技術に興味がなかった。技術など、とっくに放棄してしまっていた。話題の中心は、会社の愚痴だった。

昨日の飲み会で、ミラクルの技術者は、少なくとも現時点では技術を放棄していないことがわかった。ミラクルのマネジャーは、技術者を標準化された部品とは考えていないのだろう。私はたまたまミラクルを選んだが、若い企業はどこもそうなのかもしれない。

若い会社は、市場規模は小さいかも知れない。前職とミラクルとでは、売上の単位が違う。しかし、人々は何のために市場を生み出したのかを思い出さなければならない。企業とは何かを思い出さなければならない。

技術とは、昨日よりよい明日を得るために今日行う活動である。市場とはこの活動を加速させる舞台であり、企業とは舞台で踊る主体である。

企業の規模は目的ではない。売上とは、企業がどれだけ価値を生み出しているかを評価するベンチマーキングであって、それ自体が企業の目的ではない。テストの点数それ自体が勉強の目的ではないのと同じである。

どんなに売上を上げていても、もはや価値を生み出せなくなった企業は速やかに市場から退場しなければならない。あるいは、その売上を、価値を生み出す活動へと注入しなければならない。絶対にそうしなければならないというわけではない。これは、倫理の問題である。

ミラクルに入社して1ヶ月、技術者として、私は何だか救われた気がしている。前職では、私は、自身が十分な価値を生み出していないことに気づいていた。このことに後ろめたさを感じていた。仕事とはそういうものだと、自分を誤魔化していた。

ミラクルでは、そのようなバツの悪い思いをしなくても済みそうだ。雇用とは契約である。企業は労働者に何物かを求め、労働者はそれに答える。しかし、労働者も企業に何物かを求める。企業はそれに答えなければならない。

私は、ミラクルに、個性を潰さないで欲しいと要求する。個性を持った、強みと、当然ながら弱みも持った技術者として扱って欲しいと要求する。そうすれば、私は最高の仕事を約束する。少なくとも努力はする。これが、技術者としての倫理である。

タクシードライバー

先日、飲み過ぎて上野で終電を逃したことがあった。仕方がないので、上野から亀有までタクシーで帰った。4000円ほどだった。普段、私はあまりタクシーに乗ることがないのだが、そのとき私の乗ったタクシーには、後部座席に小さな液晶モニタが設置されていた。色々な広告が流れていた。

そこで流れていた広告で知ったのだが、今都内のタクシー会社数社で、タクシーを呼ぶためのスマートフォンアプリを作っているらし。広告によると、スマートフォンに内蔵されたGPSの位置情報を用いることで、今までのように電話で呼ぶのに比べ、よりよい配車が可能になるとのことだった。

私の父はタクシードライバーだった。かつて、タクシードライバーとえば、一種の自由業であった。父や父の友人は、9時から5時まで会社に縛られるのが嫌でタクシードライバーになったのであった。自分の気の向くままに車を走らせることができるし、疲れたときは橋の下で休憩することができた。お客を乗せることさえできれば、何をするのもドライバーの自由だった。

父は働くのが嫌いだった。お酒は飲む方ではなかったが、よく、友人たちと麻雀をやっていた。パチンコも好きだった。私も、小学校へ上がる前から、よくパチンコ屋へ連れていかれた。景品のお菓子をもらえるのが楽しみだった。

父は不まじめなドライバーであったが、そんな父でも家族を養うことができたのは、これはもちろん母の多大なる苦労があったわけだが、父がタクシードライバーとして必要なスキルを持っていたからであった。

タクシードライバーは、第1に、道を知らなければならない。第2に、交通情報を知らなければならない。道を知っているだけでは不十分だ。お客を運ぶというのは、地図を見て最短距離を走ればいいというものではない。時間帯によって、道の混雑具合は変わる。どこかで道路工事が行われているかも知れない。

第3に、お客について知らなければならない。地域によっては流しのタクシーが禁止されているところもあるが、「本物の」タクシードライバーは流しの客で稼ぐ。空港や駅で客待ちするのは素人だ。お客がちょうどタクシーに乗りたいと思ったときにタイミングよく現れるのが、プロのタクシードライバーである。

父の時代には、タクシーという産業はドライバー個人のスキルに大きく依存していた。タクシードライバーとは、職人的職業であった。タクシー無線は存在したが、個々のドライバーは組織化されているとは言えなかった。実際、組織に属さない個人タクシーはかなりの売上をあげていた。売上を独り占めできるからだ。意欲のあるドライバーは、個人タクシーをやりたがった(父はやりたがらなかった)。

ところが、2000年くらいから様子が変わってきた。カーナビとGPSの導入である。カーナビが80年代から存在したことを考えると、2000年というのはちょっと遅い気もする。しかしこれは、あらゆる職人に共通する気質で説明できる。産業革命当時、ヨーロッパの職人たちは機械を破壊する運動を行った。現代のタクシードライバーにとって、カーナビの存在は、交通のプロである彼らのプライドを傷つけるものだったのかも知れない(ちなみに、タクシーへのAT車の導入も遅かった)。

ともあれ、タクシーに革命が起きた。職人的ドライバーの時代は終わり、カーナビとGPSによる配車システムの時代がやってきた。どんなに優秀であっても、橋の下でサボるドライバーは必要とされなくなった。

小泉政権下でタクシーの自由化が行われた際、多くの若いドライバーがタクシー業界に入ってきたそうだ。彼らがタクシーに入ってこれたのも、この新しい配車システムのおかげである。新しいドライバーには、かつてのようなスキルは必要とされない。必要なのは、安全運転とサービス精神だ。

技術者としての私は、このような技術によるイノベーションを歓迎する。昨日よりよい明日を手に入れた。これこそ技術の目指すものである。件のスマートフォンアプリは、さらに良い明日をもたらすだろう。

一方で、父の気質を受け継ぐ者として、なんとなく寂しい感じもする。今のタクシーに父の居場所はない。父はもう亡くなったが、今父のような人間がいたとして、つまり私のことだが、どのような職業に就けばよいのだろうか? 誰だって、ときには橋の下でサボりたいのではないのではないか?

私が上野で乗ったタクシーの運転手は、年配の男性だった。父と同じ時代を生きたのではないかと思う。彼も、かつては職人的スキルで稼いだのかも知れない。車には、もちろんカーナビが搭載されていたし、ギアはATで、後部座席には液晶モニタまであった。もはや、かつてのスキルは必要ない。

時代が変われば、働くものに要求されるものも変わってくる。当然である。それを寂しく感じてしまうのは、単に変化に追従できていないのかも知れない。もちろん、昔にもよいところはあったろう。しかし、我々はよりよい明日を選んだのではなかったのか。

父の時代は終わった。今は私の時代である。父の時代は父の時代として、懐かしむことはあっても、寂しく思う必要はない。私は技術者として、昨日よりよい明日のため、新たなる技術に挑戦するのみである。ちなみに、そんな私は、awksedシェルスクリプトを書いている。

タンメンのうまい店

転職に伴い、藤沢から亀有に引っ越してきた。そろそろ2週間半が経つ。ようやく、亀有にも慣れてきたので、最近はタンメンのうまい店を探している。

藤沢には「千里」という中華料理屋があって、そこのタンメンがなかなか美味しかった。藤沢駅前のダイヤモンドビルの横の道を曲がったところにある。大船にもあるらしいが、そこは行ったことはない。

私は中華料理にはまったく詳しくないのだが、ラーメンの中でも、タンメンは味付けが難しい方なのではないかと思う。塩ラーメンに茹でた野菜を乗っけただけだと思ったら大間違いだ。

タンメンの味付けのポイントは、スープの塩分だと思っている。普通のラーメンは麺が主体であるから、麺と一緒に食べてちょうどよい塩加減にすればよい。ところが、タンメンの場合、野菜と麺があるので、どちらにとってもちょうどよい塩加減というものを追求しなければならない。これが難しい。

野菜にあわせてしまうと、麺を食べたときに塩分が強すぎる。逆に、麺にあわせてしまうと、野菜を食べたときになんだか水っぽい。藤沢の千里のタンメンは、このあたりが絶妙であった。

店によっては、野菜を軽く炒めて味をつけてから麺に乗っけるところもある。しかし、これだと、どうしても炒める時に使った油がスープに浮かんでしまう。私としては、タンメンはあっさりしていたほうが好みなのだ。

亀有駅前に、チェーン店の「日高屋」がある。値段も安くて遅くまで開いているので非常に便利なのだが、ここのタンメンは非常に塩分が強い。野菜を食べるのにはいいのかもしれないが、正直私の口には合わなかった。

今日は、駅前のイトーヨーカドーのそばにある「和」という中華料理屋に行ってきた。「和」というとなんだか日本料理屋みたいだが、これは「かず」と読むらしい。早速タンメンを食べてきたわけだが、野菜と一緒に食べるにはちょっと塩分が足りない印象を受けた。しかし、スープ自体は美味しくて、日高屋よりはこちらのほうが好みだ。

やっぱり千里のタンメンはやっぱり偉大である。亀有でタンメンのうまい店があったら教えてほしい。

ランチの話題は?

2月からミラクル・リナックスで働いている。まだ3日しか働いていない。この3日間は、ほとんど研修だった。来週から、本格的に業務に入るのだと思う。実は、入社して早速、非常に困難な事態に陥っている。それは、エンジニアリング上の問題ではない。ヒューマン・リレーションズに関わる問題だ。すなわち、ランチの話題である。

前職では、この問題は簡単だった。山奥の工場だったので、周りにランチをとるような店はなく、会社の手配する弁当を食べていた。また、省エネのためと称して、昼休み開始から15分ほどで消灯された。したがって、電気のついている15分間で弁当を黙々と掻き込み、午後の業務が始まるのを自席で静かに待つ(大抵の人は寝る)のである。

ミラクルでは事情が異なる。ミラクルでは、ランチとは、各自が自由に食べるものだ。弁当を持ってくる人もいれば、コンビニに買いに行く人もいる。近くのお店に食べに行く人もいる。ありがたいことに、私も、近くへ食べに行くグループに入れてもらっている。

ここで、驚くべきことに、ミラクルの人たちは話をしながらランチを食べるのである。難しい話題ではない。どこの回転寿司がおいしいとか、そういったことだ。しかし、黙々と掻き込む事に慣れている私には、これが難しい。私にとっては、「話す」か「食べる」かのいずれかであって、「話しながら食べる」は無いのだ。

さらに、困難極まるのが、このときの話題である。何を話していいのかわからない。昼休みに仕事の話を持ち出すのは、なんだか野暮ったい。じゃあ、他に何を話すかというと、とくに思いつかない。その結果、はじめは他の人の話題に相槌を打っていたつもりが、いつの間にか黙々と掻き込んでいる。そして、私だけ早く食べ終わってしまう。

外にランチを食べに行くなど、夢にまで見たサラリーマン生活だ。ミラクルでは、ランチのメニューまで会社に支配されることはないし、食べてる途中に消灯されることもない。しかし、あらゆる自由には責任が伴う。ランチの自由には、適切な話題を選択する責任が伴う。

世のサラリーマンは、この困難をどうやって乗り越えたのだろう? アドバイス求む。